北海道室蘭出身の画家・西村貴久子(1905〜1982)の『丘の朝』(1947年第3回日展特選)ことについて。

 *注)この話題について一度ブログにアップ、公開しましたが、紹介している絵に関するリーフレットのpdfファイル添付公開の許可を得たことから、訂正書きなおしをしようとしました。その際に誤って公開した記事を消去をしてしまいました。関連サイトにリンクをしているために、ネット上に無駄な情報を放り出したままの状態になっています。こうなるともう情報発信者の私には手の施しようがありません。ですから、古いエントリーが検索に引っかかった方にはご迷惑をおかけしました。お許し下さい。
北海道室蘭出身の画家・西村貴久子(1905〜1982)のことについて。

 彼女の親族が彼女の業績を残すために『貴久子ブルー 西村貴久子―作品と時代』(ISBN4-87739-121-5 共同文化社)という画集を制作したのだが、私はそのバイオグラフィーを企画構成し原稿にするお手伝いをした。
 その親族はこの画集を制作する過程で、西村貴久子の描いた絵の所在をたどる、“とりつかれた”ような旅をしている。その旅の中で探し出した西村貴久子の画壇デビュー作とも言える第10回帝展(1929年)初入選の作品『F嬢』は、現在、室蘭市教育委員会が所蔵している。この作品も所有者を探しだし、買い戻す時の経緯が実にドラマティックなのであるが、詳細は『貴久子ブルー』をお読みいただくとして、ここで話題とする『丘の朝』は、この画集を制作する時点では、所在が不明となっていたものの一つである。
 その作品が64年の時を経て、親族の元に戻って来たのである。保管状態があまりよくなかったこともあって絵具が剥落しているが、描かれた時の貴久子のみずみずしい感性が十分に伝わってくる。ただ、これから永い間、多くの人に観てもらうためには修復する必要があるということで、親族は、費用のカンパを募ることにしたのである。私自身、バイオグラフィー制作に関わったこともあり、現在、興味を持って学んでいる「アーカイブズ」という分野からも観ても、注目すべき事例と考えている。もちろん、修復が完了した後には、何らかの形でたくさんの人に観てもらう方策を、親族は考えているとのことだ。
NishimuraKikuko.pdf 直
 さて、この西村貴久子という画家、明治、大正、昭和と、近代日本女性の”解放”の先端を走っていた人物と言えよう。室蘭で生まれ、図画・作文で首席を取って室蘭高等女学校に進学、その後、小樽高等女学校に転じて卒業。その小樽の女学校時代に知り合った山田順子を頼りに上京、順子の愛人である徳田秋声を通して、当時の画壇を代表する岡田三郎助に師事する。前述の『F嬢』の入選後、林芙美子が『放浪記』を最初に連載した文芸誌「女人藝術」の挿絵の仕事を通して、当時の先端を行く女性芸術家たちとの繋がりを広げている。
 その後、日本が戦争の道へと舵を切る頃に結婚、池袋モンパルナスにアトリエを設けている。戦火が東京に及んだ1945(昭和20)年春、北海道へ疎開。一時、札幌の薄野成田山境内にアトリエを構えていた上野山清貢の元に通うが、すぐに母親の縁故を頼って砂原町に移る。そこから庁立森高等女学校(後に学制改革で森高等学校となる)に通い、美術講師を務めながら、全道展の創立会員に名を連ねるのである。
 再び東京に戻るが、1970(昭和45)年には、夫の病気療養を理由に札幌に転地する。このことは貴久子にとっては落魄そのものであった。夫を彼岸へ送った後は、一人、札幌での生活を続けながら創作を行っている。1980(昭和55)年十勝川温泉での制作中に脳血栓で倒れ、その一年後に77年の生涯を閉じている。
 子どももいなかったことからその晩年は孤独なものであったが、絵に対する”執念”は生涯、持ち続けている。ただ、彼女の生涯を追う中で分かったことは、画集の編集後記にも記述しているように、絵以外の私的なことについてはほとんど”謎”に包まれている、ということなのだ。そして、もうひとつは、写真に写った彼女の姿は何点か残っているが、自画像は一点も残していないということである。
 芸術家とはこうした”謎”の要素があってこそ成立するものかも知れない。
 いずれにしても、64年という時を経て縁の人物の元に戻ってきた『丘の朝』が修復されることによって私たちが得るものは一体何か、興味津々である。