◆モラトリアム モシクハ デフォルトの悪夢

 今、私の財布の中身は、私の労働の対価として、契約を交わした上で、雇用者側、あるいは仕事の発注者側から支払われたものだけである。私の持つ100円は、101円としての価値は持たない。ところが、「時間」によってこの価値が増殖することを考え出した。「利子」「利息」である。そして生産物・サービスの対価は、需要と供給のバランスによって決定されるという経済活動の原則が認識されると、今度は価値が価値を生むことにも気づく。こうして人間が集まって形作る社会のあるべき姿が、共有される。経済成長こそが善であるとの思想が世界を覆う。それらの基盤をなすのが「統計」という情報の集合体であることに気付くのは当然のことである。そしてその抽象化された情報を利用して100円を101円に、いや何倍にも何百倍にもできるシステムを構築することに知恵を傾けてきた。これにまやかしがあれば、私が生きていくために寄って立つ100円の価値が全く信用できないものとなる。今、現在進行形で起きているこの国の一連のまやかしがMoratorium and Defaultという悪夢を予感させている。国とはやはりいささかも信頼できるものではないということか。

★映画「ビブリア古書堂の事件手帖」

監督:三島有紀子/脚本:渡部亮平松井香奈/原作:三上延(メディアワークス文庫 KADOKAWA)/キャスト:黒木華野村周平成田凌夏帆東出昌大・妹役?/配給20世紀フォックスKADOKAWA 2018年
 この映画でも黒木華はがんばっている。野村周平のセリフ回しの声が菅田将暉に似ていることに気づいた。栞子の高校生の妹役(名前はWEBサイトで確認できると思っていたら出ていない)がとても自然でいい演技をしていた。
 文学好きというか本好きにはちょっと楽しめる映画だが、ミステリー仕立てが何か中途半端なストーリー展開かも知れない。時代と場所の設定も何かしっくりこない印象を持ってしまった。冒頭の絹子祖母ちゃん(渡辺美佐子)の葬列のシーンから時代、場所が何とも曖昧不明になってしまったのだ。”切通”、”江ノ電”が出てくるから鎌倉なのだろうが、冒頭のような葬列には違和感がある。それがずーっと今と過去のシーンの行き来のひっかかりになっている。

★映画「止められるか、俺たちを」

監督:白石和彌/脚本:井上淳一/キャスト:門脇麦(吉積めぐみ)・井浦新(若松孝二)・山本浩司(足立正生)・岡部尚(沖島勲)・大西信満(大和屋笠)・伊藤空(高間賢治)・渋川清彦(松田政男)・音雄琢真(赤塚不二夫)・高岡蒼佑(大島渚)・寺島しのぶ(前田のママ)/配給:若松プロダクション、スコーレ/2018年 
 若松孝二へのオマージュ。60年代末から70年代はじめの混沌とした社会、政治にエロ・グロ・ナンセンスのごった煮のような状況の時代の話である。私自身、北国の地方都市からある種の憧れをもって早稲田に入ったころ、授業はまともに受けられず、デモに誘われ、セクトに誘われ、そのうちに麻雀荘の海の中に沈んでいった。80年代に入っていつしか「学生運動」の熱は冷め、バブル景気にイケイケどんどんの世の中に左翼は埋没していく。もちろんそれと一緒に右翼もいつしかその声の音量は絞られ消え失せていた。そうなのだ、拝金主義に走り、この時代の”ソーカツ”もせずに、今はたんなるキレる老人になってしまった者たちがこうした時代を作ってきたと思えば、何となく納得できる映画なのかしもれない。
映画の公式サイトは、http://tomeore.com/

★映画「日日是好日」

監督・脚本:大森立嗣/原作:森下典子/キャスト:黒木華樹木希林多部未華子 2018年
 お茶の作法と心象風景。樹木希林は演技をするというより素の姿そのままという印象を受けた。黒木華は頑張っている。

★映画"Churchill" チャーチル ノルマンディーの決断

監督:ジョナサン・テプリツキーJonathan Tepiitzky チャーチルブライアン・コックスBrian Cox 妻クレメンティーン:ミランダ・リチャードソン Miranda Richardson 英国王ジョージ6世:ジェームズ・ピュアフォイ James Purefoy アイゼンハワージョン・スラッテリー John Sattery 秘書ギャレット:エラ・パーネル Ella Purnell 2017年イギリス

 鑑賞。史実に基づくシナリオと思うが、台詞については脚色がある。最後の台詞、"We shall never surrender, and I shall never surrender."も実際の演説とは違っており*、チャーチルの心情を象徴的に示したかったのだろうと思う。いずれにせよ歴史的な「ノルマンディー上陸作戦」に向かう権力者の葛藤が描かれていた。どこぞの国の宰相とどうしても比較をせざるを得ない内容だった。

★BLACK OUTと「平成30年北海道胆振東部地震」

 9月6日早朝、ものすごい軋みに目が覚める。無意識に体を俯せにして布団に両手を広げて防御の姿勢になっていた。その状態でガタギシとなる大きな音を聞き続けた。マンションの4階である。つぶれることはないだろうと自分に言い聞かせてはいたが、一向におさまりそうにない横揺れになすすべがなかった。
 どのぐらい時間が経っただろうか、おさまったの確かめて体を仰向けに戻し枕もとのスマホに手を伸ばした。気象情報のアプリをタップし、地震情報の項目を開いた。最新情報として出てきたのは岩手県で深夜1時過ぎに起きた震度1の地震情報だった。しばらく画面をスワイプして情報の更新を続けていると、厚真町震源とするM6クラス、震度7、北海道の地図上に震源が赤い丸で示された情報が出てきた。大変なことになった。何をすべきかと体を起こしやや茫然としていたら、小さくパツンという音がして枕もとの読書スタンドが消えた。冷蔵庫のモーター音もスーッと止まった。懐中電灯を探し、次に非常用のダイナモタイプのラジオを探しそれに電池を入れてスイッチを回した。それが4時近かったように思う。
 それから懐中電灯で部屋の中を確認すると、玄関先のニッチに飾っていた版画が廊下におちてガラスが割れていることに気づいた。玄関先の部屋の本棚は倒れていなかったが、文庫本が数冊落ちていた。他に落ちたり倒れたりしたものはなかった。この状況ならば停電はすぐに解決するだろうと考えた。しかし一向に電気がつく気配はない。カーテンをあけ外の様子を見ると、街灯も手押しの信号機も消え、道路を挟んだ人形店の店内では警報音を鳴らしながら非常灯が回転しているのが見えた。事態がそれほど楽観できるようなものではないことは日が昇って明るくなるころには何となく想像できた。
 結局、通電したのは、およそ12時間後のことである。「BLACK OUT」(全電源喪失)というニュースの見出しに1977年の"New York City blackout"を思い出し、電気エネルギーがどれほど今の生活のありようを支配しているのか考えさせられた。そしてテレビには被害の様子が映し出されている。その場所にあった日常の生活が私の場合よりももっと厳しくつらく哀しいものに変貌してしまっていることに言葉を失う。