2010年10月12日のツイート
@yukidarumays: 「同省によると、部外者が無線交信することについて法令に規定はないが、内規違反に当たるという」―→またサンデル教授にご登場願う話…?航空機に影響を与えたわけではない、しかし、中学生はいい体験をしたと。 / asahi.com(朝日新聞社)… URL
まず、訂正。「航空機に影響を与えた訳ではない、しかも、中学生はいい体験をした。しかし、担当管制官は内規違反で何らかの処分を下す必要があるのか?」と。
いずれにしろ、この朝日新聞の記事の「意図」はどこにあるのか、考えてしまう。
―こういうようなことを現場でやっているのだから、いつ事故が起きても不思議ではない航空管制業務―
―中学生の職業体験のあり方を考える必要がある― などなど、である。
私が、この記事を読んで考えてしまったのは、ミシェル・フーコー言うところの「パノプティコン」。この語義を、私は、“監視下社会”というように理解をしているが、何事もこのように“情報公開”され、メディアがそれを報じ、それを読んだ当事者以外が、私を含めて、何らかの意見を表明する。それが、いつしか“流れ”を生み出し、二項対立に置換されて、大きな潮流に変貌して行く。「それ見たことか、だから、“監視カメラ”を設置しなければ大変なんだ」と。
もう一点は、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」である。自由でありたいと願うあまりに人間は自らの行動に軌範を課す、つまり「枠」をはめなければ、生きていけないという一種のアンビバレンツな状況である。
管制官が、良かれと思って行ったこと、職業体験をした中学生はとてもいい経験をしたという満足感があるのに、実はそうではないという評価――。そこで、またまたこの問題を整理するためにハーヴァード大学サンデル教授にご登場願うのかと、思った次第……。