●「善意」とは自分のために抱くものなのだろう

 メディアが発信するニュースとは"bad news"であることがごく当然のようになっている。"good news"とはいうなれば「商品価値」がないものとメディアには思われている。
 それゆえ「人の不幸をネタに飯を食う」というのが、マスメディアの寄って立つ基盤を典型的に示す言葉としてよく言われるのである。この仕事に携わる者は、半ば自嘲気味にこうした表現を使って自己正当化を図っている。だから、次のような「善意」をテーマとした記事は珍しいと言える。

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/E20100122001.htm

受験生、救われた 大雪で足止め、長岡―上越―輪島 トラックがリレー、夜通し9時間 埼玉の女子、入試間に合い合格

女子生徒の作文を読む浅川副校長=航空高石川
 「最後まであきらめない」。航空高石川(輪島市)の推薦入試受験へ、埼玉県内から列車を乗り継いで同校へ向かう途中、大雪のため新潟県内で足止めされた中3女子が、ヒッチハイクしたトラック運転手の夜通しの運転に助けられ、間一髪で受験開始に間に合った。同校では22日までに「困難にめげず頑張った、ある受験生の話」として全校集会で紹介し、夢実現へ努力する生徒たちの胸を打った。

 女子生徒は1月17日午前9時10分開始の試験に向け、前日から母親と夜行列車などを乗り継いで輪島市へ向かう予定だった。しかし、新潟県長岡市まで行ったところで、大雪による列車運休で足止めを余儀なくされた。17日午前0時過ぎ、2人は試験に間に合わないと判断し、列車を降りてヒッチハイクを決意。通りかかったトラックに上越市内まで送ってもらい、さらに同市の給油所に立ち寄った車に同乗を頼んで回った。

 寒風の中、数台に断られながらも必死に石川方面に向かう車を探すと、山形県内の運送会社のトラック運転手が快諾してくれた。同乗は「金沢市まで」との約束だった。だが、運転手は同市に近づくと「よし、輪島まで行っちゃる」とハンドルを切り、進行方向を北に変えた。

 試験開始の約10分前、2人は学校に到着、ぎりぎりではあるが、善意のリレーで間に合った。事前の電話連絡で「欠席」と踏んでいた教員が驚いて出迎えると、運転手は「うちの娘も受験生だから気持ちはよく分かる」と控えめに語り、名前や行き先なども告げずに立ち去ったという。

 作文試験に臨んだ女子生徒は出題されたテーマを見て、目を丸くした。「私が感動したこと」。迷うことなく、女子生徒は直前まで起こった「感動」をありのまま書き記した。深夜に見ず知らずの親子を運んだ運転手の温かさ、「絶対にあきらめない」と懸命に車を探してくれた母を通して「人の優しさに感動した」とつづった。

 女子生徒の作文に目を通した浅川正人副校長は「運転手の善意に感謝でいっぱい。簡単にあきらめない生徒も立派だった」と目を細めた。

 女子生徒には21日、合格通知が届けられた。

 こうした「善意」をテーマとする記事が、新聞全体の中にどの程度の割合で掲載されているのか。このあたりの物理的な記事量をデータとして分析してみると、その時代の潮流が見えて来るに違いないと思う。こうしたマスメディア研究も重要ではないだろうか。「マンパワー」があれば、それほどの時間をかけずとも近代における記事内容の"good news"、"bad news"のデータは整理できるだろう。が、これについては、また別の機会に考えてみたい。
 本題に戻ろう。
 この記事を読んで、思い出したのがトルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭部分だ。原文は次の通り――
Все счастливые семьи похожи друг на друга, каждая несчастливая семья несчастлива по-своему.
 手元に文庫本がないので、木村浩あるいは米川正雄、それとも中村融だったか、その翻訳を引用できないが、およそ、「幸福は皆同じように見えるが、不幸の姿というのはそれぞれに違っている」という意味と私は捉えている。幸福の様相は誰が見ても一様だが、不幸にはそれぞれ違った事情があり、それぞれに異なった様相を見せるものだ、ということだ。言葉を変えるならば、「隣の芝生は青く見える」と言ってもいい。だから、同じように見えるもの、つまり"good news"を伝えても、誰も見向きもしてくれないという価値判断をメディアは下しているのである。
 しかし、この北陸で起きた「幸福な物語」は、引用記事のように報道された。何故か。人間が本能的に求める“善”の典型的な姿がここにあったからだと、私は推測する。きっと、取材した記者は、そこに共感したのだ。降り積もる雪、入試の時間に間に合った女子生徒とその母親の安堵の表情――。そして、名前を告げずに走り去ったトラック運転手の行動、まるで映画のクライマックスシーンである。
 このようなこと考えた時に、このトラックの運転手と重なる姿が、私のごく身近にいることに気付いた。早朝、道端のゴミを拾う老婦人である。私の住む街のそれほど離れていない地域に、そうした老婦人が二人いる。既に、そのうちの一人は亡くなられたが、毎朝見るこの二人の姿から、人のためにとか、あるいは感謝の言葉を他者から貰うためにゴミを拾って歩いているのではないと、私は考えるようになった。自分自身のためにゴミを拾っているのである。
 同様に、トラックの運転手が困り果てている親娘を助けたのは、自分のためであった。目の前にいる困難な状況に置かれているものを救う力を持つ自分に嘘を付けなかったのだ。だから、名前を告げる必要などなかったわけだ。(私が直接、御本人に聞いた訳ではないので、名前を告げる意志などなかったかどうかは私の勝手な推測だ。しかし、この記事の文脈から読み取るならば、このトラック運転手に名前を告げる気などはなかったと私は思う。)
 こんな思考を重ねて行ってたどりついたのは、つまり、“善意”とは自分のために抱くものであり、行動を起こすものなのだ、ということである。