●「揶揄」

 揶揄とは、遠まわしにからかうこと、と言っていいだろう。ある会議の中における上位のもののある説明のなかに、ある“揶揄”を読み取り、こんなことを考えた。
 こうしたコミュニケーションは、日常の中でごく普通に繰り広げられているが、会社などの組織でこうした表現が使われた場合、使う人間の立場によって、その意味合いが大きく異なる。組織上、上位の立場にいる人間が使えば、それは「パワーハラスメント」となり、その揶揄を受けた立場の人間は、組織に対する忠誠心のような思い、あるいは仕事をこなし組織の発展に貢献して行こうという志気がそがれる。その逆に、下位のものが上位のものを揶揄する場合、面と向かってそうしたことなどできようはずがない。そんなことをすれば、上位のものから“報復”される危険があるからだ。陰に隠れてひそかに揶揄の言葉を吐き出し、鬱憤を晴らすしか方法はない。しかし、人間の社会における関係というのは、この揶揄する側と揶揄される側で成立しているのかも知れない。同時にこうしたやり取りを昇華、あるいは消化の方が適切な表現か、できる精神性を人は持たなければならないだろう。それでも『武士の一分』は譲れない……。 
 「学者の世間」というのは阿部謹也の言うとおりである。こうした階層が、傲岸不遜にも時代の進む方向を指し示してきたことに、私はある種の憤りを覚える。同時に、そうした“世間”に私自身が身を置いていることに、常に自戒の念を持たなければならない。
 ―― 実るほど頭を垂れる稲穂かな ――

 そう、「言葉」は刃物である。ぐさりと人の心を刺し、流れた血は永遠に沈殿する。